プロローグ
夜明け前の村は、息を潜めているように静かだった。
鶏の鳴き声も、犬の吠える声もない。
ただ、薄い霧が田畑を覆い、遠くの山の輪郭をぼやけさせている。
その霧の中、私は一人、土の道を歩いていた。
背中には、古びたリュックひとつ。
中身は替えの下着と、小さなアルバムと、祖母が握ってくれた冷たい饅頭だけだ。
家に置いてきた布団は、今夜から私を温めることはない。
祖父母の手は、もう私を引き留めることもなかった。
この村で過ごした十八年間は、静かに幕を閉じた。
私は振り返らなかった。
振り返れば、きっと足が止まってしまう気がしたから。
霧の向こうに広がる未来は、見えない。
けれど、このままここに留まれば、何も変わらないことだけはわかっていた。
遠くで、始発の汽笛が低く響いた。
それは、私を呼び寄せる合図のようだった。
——この一歩が、私をどこへ連れていくのか。
まだ何も知らないまま、私は足を前へと運んだ。
第1章「霧の村を出る日」
八月の空は、まるで鉛を溶かしたように重く、色を失っていた。
雲は低く垂れこめ、蝉の声が途切れ途切れに響く。
私は、李雪瑤(リー・シュエヤオ)、十八歳。
貴州省遵義市の外れ、小さな村の祖父母の家で暮らしている。
家の前には、畑と山しかない。舗装されていない土の道は、雨が降ればぬかるみ、乾けば細かい土埃が舞う。
祖父は古い竹の椅子に腰かけて煙草を吸い、祖母は庭で細い腕を動かしながら野菜を洗っている。
その背中は曲がり、日焼けで深い皺が刻まれていた。
私は縁側に座り、ぼんやりと遠くの山並みを見つめる。
その山の向こうには、どんな景色が広がっているのだろう。
でも、そんな想像をしても意味はない。私は、この村を出たことすらほとんどないのだから。
両親のことを思い出す。
父は私が十歳の頃に家を出た。理由は、もう思い出せないほど曖昧だ。
母はしばらく私を育ててくれたが、再婚相手が私を嫌った。
「この子は邪魔だ」と言われ、結局、祖父母の家に置き去りにされた。
その日、母が背を向けて去っていくとき、私は何も言えなかった。
涙も出なかった。ただ、胸の奥がひどく冷たかったのを覚えている。
学校には通っていた。
でも、同級生との距離はいつも遠かった。
彼女たちはスマートフォンで流行の動画を見せ合い、週末には町のカフェで写真を撮っていた。
私はといえば、古びた携帯電話と、祖母が直してくれた色あせた制服。
昼休みの弁当は、固くなった饅頭ひとつか、前夜の残り物の野菜炒め。
「食べる?」と聞かれることもなければ、「今度一緒に遊ぼうよ」と誘われることもなかった。
夢を語り合う輪に入ったこともない。
医者になりたい、先生になりたい、都会でデザインの仕事をしたい——彼女たちは未来を当然のように語る。
私はただ、黙ってノートにシャープペンを走らせるふりをしていた。
将来の話をすれば、自分の現実がより惨めに見えてしまうから。
高校生活も残りわずかになった。
進学は無理だとわかっている。
祖父母の年金はわずかで、日々の生活費を賄うのがやっとだ。
卒業後は村の小さな靴工場か、町の食堂で働くぐらいしか道はない。
どちらも給料は低く、十年後も二十年後も、きっと同じ場所にいる自分が目に浮かぶ。
——何か、他の道はないのだろうか。
その日、いつものように放課後の廊下を歩いていたとき、ふと足が止まった。
学校の掲示板の前だ。
そこには、色あせた文化祭のポスターや古いお知らせがいくつも貼られている。
その中で、一枚だけやけに新しく、光沢のある紙が目を引いた。
迷彩服に身を包んだ男女が並び、笑顔で敬礼している。
ポスターの上部には太い赤字でこう書かれていた。
《中国人民解放軍 陸軍 新兵募集》
その下には、いくつかの言葉が並んでいる。
「安定した収入」
「衣食住保証」
「国を守る誇り」
私の視線は、その「衣食住保証」という文字に釘付けになった。
制服を着れば皆同じ。三度の食事が出て、屋根の下で眠れる。
それは、私の人生でほとんど味わったことのない安定だった。
祖母が作る夕食は、薄いスープと少しの野菜炒め。
肉は月に一度、祭りの日だけ。
冬になれば、布団は薄く、夜中に寒さで目を覚ます。
そんな生活から抜け出せるとしたら——。
ポスターの端に、小さくこう書かれていた。
《応募資格:18歳以上、高校卒業見込み》
私は条件を満たしている。
心臓が少し速くなるのを感じた。
気づけば、ポケットからメモ用紙とペンを取り出していた。
募集窓口の住所と電話番号を書き写す。
指先がかすかに震えている。
これは、不安のせいだろうか。それとも、希望のせいだろうか。
家に帰ると、祖父母は古いテレビの前で、ニュースを見ながらうたた寝をしていた。
私は声をかけず、自分の部屋に入る。
机の引き出しの奥に、メモ用紙をしまった。
まだ誰にも言えない。
でも、心の奥ではもう決まっている気がした。
——これが、私の人生を変える唯一の道だ。
次の第2章「汗と泥と友情と」はこちら
今回の「日本と中国の二面性」の解説記事はこちら
書(描)いた人:雲子(kumoco, Yun Zi)
諸子百家に憧れる哲学者・思想家・芸術家。幼少期に虐待やいじめに遭って育つ。2014年から2016年まで、クラウドファンディングで60万円集め、イラスト・データ・文章を使って様々な社会問題の二面性を伝えるアート作品を制作し、Webメディアや展示会で公開。社会問題は1つの立場でしか語られないことが多いため、なぜ昔から解決できないのか分かりづらくなっており、その分かりづらさを、社会問題の当事者の2つの立場や視点から見せることで、社会問題への理解を深まりやすくしている。