自由に表現したアートは人を傷つけてる。アート批評の二面性(2/2)

自由に表現したアートは人を傷つけてる。アート批評の二面性(2/2)


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前回の「制作者の意図が無視され駄菓子のように消費される芸術作品」にて制作者の批評的な意図が無視される側面を紹介しました。

今回は真反対である「批評内容が伝わりすぎる」側面を紹介します。

大前提として表現の自由があります。表現の自由があるおかげで、大きな権力に屈することなく好きなように表現することができます。この自由がもしなかったら私達はどの情報を信頼すればいいのかも分からないですし、どんな意見があるかも分からなくなってしまいます。

また制作意図が伝わらなくても受け取る側の解釈の自由を大事にしたい立場もあると思います。その自由がときに個人の感性や学びを豊かにするかもしれません。

しかしときにその自由は誰かを傷つけたり、ルールに違反してしまうことがあります。どこまでが自由なのでしょうか。

特に大きく伝わりすぎてしまった批評作品は、2015年にシャルリーエブドによって制作された風刺画がイスラム過激派の気持ちを傷つけ、怒りを買ってシャルリーエブドが襲撃をうけてしまった事件です。

※以下のようなムハンマドの風刺画を何回も掲載してきた。イスラム教では偶像崇拝が禁止されている。
Source: 『表現の自由』どこまで許される? 仏風刺画はユーモアか、それとも侮辱か

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また日本でもいくつか表現の自由と配慮の難しさが浮き彫りになった案件があります。

※原爆ドームの上空に原爆を想起させるような表現を行なった。
Source: 原爆ドームの空に“ピカッ”で『Chim↑Pom─ひろしま展』中止となった問題を考える

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※少女をテーマにあつかってきたシリーズのなかで性暴力を扱った。
Source: 森美術館における「会田誠展」の性暴力展示に抗議を、について私的見解

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※女性器をかたどった作品が違法だと言及されてしまった。
Source: 「ろくでなし子」被告に一部無罪 「わいせつ」裁判で弁護団「歴史的」(UPDATE)

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ここまで「全く伝わらない側面」と「伝わりすぎる側面」を紹介しましたが、ではどうしたら「ちょうどいい」のでしょうか。ちょうどよさは3つの要素から考えられるかもしれません。

1、アーティスト自身による表現への研究

そもそも何のために表現するのか、何のために批評するのか、批評してどうしたいのか、これらの具体的な設計と計画がなければ受け手に正しく意図を伝えることはできません。

逆に自分勝手に作りたいように作れば、その受け手もまた勝手に受け取るだけであり、その受け取り方が違法性や非道徳性につながるわけです。自由と自分勝手はまったくもって別物です。

2、批評する相手やテーマが大きすぎて感動する側が行動に移しにくい。

例えばアーティストが戦争反対のテーマで制作したとします。それに感動した人一個人ははたしてどうやって戦争をなくせるでしょうか。その人が一国の大統領であれば戦争を止めることは可能かもしれません。しかし、一般人ができることは選挙で戦争を起しそうな人を選ばないぐらいですし、選挙では少数派がそれをしたとしても大多数がそうしなければ意味がありません。アーティストはもっと身近な問題や行動に移しやすい問題を取り上げたほうがいいのかもしれません。

3、ただ関心を持ってもらうだけの活動にどこまで意味があるのか

アーティストによって制作された表現だけでアーティストの意図を全て叶えられるわけではありません。例えばアーティストが「戦争反対」を訴えたとしても、戦争はその構造を本質的に考えると反対を訴えてもなくならないからです。

しかし戦争をしないために考えるきっかけになったり、他の人と戦争について話すときの話題提供として機能したり、日常の積み重ねのなかの1つになることはあります。

人間は色んな要素のインプット(勉強や学習)が絡み合って、複雑なアウトプット(行動)が生まれるので、アート批評もそのインプットの一つとして機能しているかもしれません。それが一時的には記号的な消費だとしてもです。

※ボランティアの原因に「アートに触発されたから」はないが、自分の趣味や関心が大人になるにつれてできあがる過程のなかにアートによる影響があったかもしれない。
Source: 全国ボランティア活動実態調査報告書

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